msワラントについて
msワラントとは、行使価額修正条項付新株予約権のことで、MSSOとも呼びます。
msワラントは、権利行使期間内であれば、あらかじめ定めた価格で新株を取得できるが、その価格が随時修正されるのが特徴。
msワラントの仕組みはMSCBとほぼ同じだが、社債は付いていないので引受先が最初に払う金額は少なく済みます。
MSCBならほぼ確実に期待できる払込資金の入金が、msワラントでは保証されていません。
MSCBやmsワラントで調達した資金というのは、簡単に調達できたが故に効果的に使用されないことも多く、それがために再度MSCBでの資金調達を行う、と言う企業も増えつつあるということです。
商品先物取引の弱体化につけ込んだベルベル系遊牧民・ザナータ族の首領・アブドゥル=ハックにより創始された王朝である。ムワッヒド朝がカスティリャ王国とのレコンキスタでアルフォンソ8世に敗れて衰退すると、フェズ、ラバト、サレからサハラ、モロッコ北部に進出して勢力を拡大した。1269年、時のスルタン・アブー・ユースフ・ヤアクーブ(位1258年〜86年)がマラケシュを占領することでムワッヒド朝を滅ぼした。さらにヤアクーブはカスティリャ国王・アルフォンソ10世(賢王)とその息子・サンチョ4世が王位を争っているのを見て、この王位争いに巧みに介入し、レコンキスタでカスティリャ王国に対して優位に立った。ただし、アルフォンソ10世の支援には失敗してしまった。
1286年、ヤアクーブが死去してその息子・アブー・ヤークーブ・ユースフ(位1286年〜1307年)が後を継ぐと、ザイヤーン朝との戦いに明け暮れて、かえって王朝衰退の一因を作ってしまった。そして1307年、ユースフが死去すると王朝内でスルタンをめぐっての争いが起こり、王朝は一時衰退する。1340年にはカスティリャ王国との戦いに敗れてアルジェリアを奪われるという有様であった。しかしその後、アブー・アルハサン(位1331年〜1348年)やアブー・イナーン(位1348年〜1359年)の治世に王朝は全盛期を迎え、1347年には奪われたトレムセンとチュニスを奪回した。ちなみにアブー・イナーンの時代に、イブン・バットゥータの旅行記が記されていることは有名である。しかし、相次ぐ対外遠征は、マリーン朝の財政に大きな負担を残していた。
投資信託、無能な君主が続き、王位継承争いが絶えず、宰相さえも頻繁に交代し、国情は安定せず、マリーン朝はたちまち弱体化した。しかも王朝内でペストが大流行し、さらにトレムセンやチュニスで反乱が起こり、マリーン朝の君主は名目だけの力しかもたなくなっていた。国内の混乱は、外敵を誘い込むことになり、多くの大西洋岸の港町はポルトガルに奪われた。こうした状況は、各地に愛国主義やスーフィズムと結びついた霊力(バラカ)をもつ「聖者」(マラブー)を中心とした同胞団や修養所(ザーウイヤー)を生み出した。こうした同胞団勢力は、イドリース朝の後裔であるエル・ジューティとマリーン朝の最後の君主、アブドル・ハックを頂き宰相を世襲で勤めていたリビア出身のワトアース家に収斂されていく。アブドル・ハックは、敵対するワトアース家のヤヒヤーを殺すが、エル・ジューティの同胞団勢力に殺されて、1470年、ついにマリーン朝は滅亡した。
12世紀頃、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀?14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が見つかっており、かなり大規模な交易を行っていたようである。15世紀頃、グレートジンバブエは放棄され、代わってザンベジ川中流域にモノモタパ王国、現ブラワヨ周辺のカミ遺跡を首都としてトルワ王国が興り、覇権を握った。
外貨預金にかけて、ポルトガル人の侵入に苦しむが、撃退。地方首長国の分立状態となる。19世紀後半に南アフリカ会社に統治された後、第一次世界大戦後にイギリスの植民地に組み込まれ、イギリス領南ローデシアとなる(ローデシアは「ローズの家」の意。南アフリカ会社設立者にしてケープ植民地首相のセシル・ローズの名からとられている)。国土のほとんどは白人農場主の私有地となり、住民達は先祖の墓参りの自由すらなかった。
CFDによる独立運動が行われていたが、民族自立までの道のりは険しく、1965年には、世界中から非難を浴びる中、植民地政府首相イアン・スミスによって白人中心のローデシア共和国が独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側も、スミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開するが、イギリスの調停により、100議席中、20議席を白人の固定枠とする事で合意、ローデシア紛争は終結した。1980年の総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立し、カナーン・バナナが初代大統領に、そしてロバート・ムガベが初代首相に就任した。1987年からは大統領が儀礼的存在である議院内閣制を廃し大統領制に移行し、首相職も廃止。ムガベが大統領に就任した。2008年8月現在も引き続きムガベが権力を握りつづけている。
1999年コンゴのカビラ大統領と親交していたムガベ大統領は内戦が起きたコンゴに約1万人の軍を派兵した。カビラ大統領を支えるためだが、真の目的はコンゴにあるムガベ一族が所有するダイヤモンド鉱山を守る事や、コンゴのそれらのダイアモンドや銅や金などの地下資源の狙いの理由もあった。コンゴに軍隊を送り、これに反対する運動がコンゴの都市部を中心に活発に起き、派兵直後にカビラ大統領は暗殺されるなどコンゴ派兵は混乱を招いた。ムガベ大統領はコンゴ内戦への派兵に専念していったため、ジンバブエの経済や医療、教育などが悪化していった。 そのためムガベ大統領への批判が相次ぎ、イギリスのマスコミなどは、ムガベ大統領は批判を避ける目的で白人農場を強制収用する政策にすり替えていったとしている。
ムガベははじめは黒人と白人の融和政策を進め[1] 、国際的にも歓迎されてきたが、2000年8月から白人所有大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された[1]。この結果、白人の持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後世界最悪とも言われるインフレーションが発生した。こうした経済混乱に、長期政権・一党支配に対する不満とあいまって治安の悪化も問題となっている。また、言論の統制などの強権的な政策は外国や人権団体などから批判を受けている。
不動産投資には「ムラムバツビナ作戦」によって地方の貧しい都市地域および周辺都市地域を標的に大規模な強制退去と住居破壊を行い[2]、さらには2007年3月11日、警察によって活動家ギフト・タンダレが暗殺されている[3]。女性差別は依然存在するばかりか激しさを増しており、女性活動家の行動はおろか生活すらも統制され、トウモロコシを穀物流通公社に売ることさえもできなくなっている[4]。
ローデシア共和国初代首相であったイアン・スミスは、政界復帰を狙っていると伝えられていたが、2007年11月20日に南アフリカ共和国・ケープタウンの自宅で心不全により88歳で死去した。
グレートジンバブエ遺跡の「大囲壁」の外観。Randall-MacIver,D.1906より2008年3月29日より大統領選挙が始まり、現職の与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線のムガベ大統領他、与党から造反したシンバ・マコニ元財務相と最大野党の民主変革運動のモーガン・ツァンギライ議長が立候補していたが、ムガベ政権からの弾圧によりツァンギライ議長は出馬の取り止めを余儀なくされた。これにより、ムガベ大統領は欧米からの決選投票延期要請を無視し、投票を強行、勝利したと宣言した。7月11日、国際連合安全保障理事会にジンバブエ政府非難と、ムガベ大統領ら政権幹部の資産凍結・渡航禁止などの制裁決議案が提出された。しかし、中国とロシアが内政問題であるとして拒否権を発動し、否決された。賛成9(アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、パナマ、クロアチア、コスタリカ、ブルキナファソ)、反対5(中、露、南アフリカ、リビア、ベトナム)、棄権1(インドネシア)だった。
野党勢力への迫害が強く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが常態化している。事実上、ムガベ大統領の独裁政治体制が続いている。 2008年6月の大統領選挙においても国連から「公正な選挙がなされておらず、不正選挙にて大統領が選出された」という非難声明が出されている。国連の介入の議論がされたが、ロシアと中国が拒否権を行使し否決された。
国内では報道規制が厳しく、CNN・BBCをはじめ国外のマスコミの取材が禁止されている。そもそもの宗主国であったイギリスに対するジンバブエ国民の悪感情は根強い。またイギリス側のジンバブエ報道も、過度に扇情的であるとの指摘もされている。